忠勝の次男。天正10年(1582)生まれ。 関ヶ原合戦では、父・忠勝に付き従って活躍し、戦後に忠勝の桑名移封に伴い、忠勝の旧領・上総大多喜5万石を拝領。上総大多喜藩2代藩主となった。 この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。, また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。」(現地案内板), 徳川に多くの忠臣を輩出した本多家であるが、この活躍がもっと世に広まることを願いたい。そして次は……。 【おまけ】野太刀の鍔
本多忠真は、徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。, 本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿を買って出ました。 上記の系図内の※印の数字は、血脈がつながっていることを意味し、二重線は養子として家督を継いだことを意味している。, 系図を見ると、21代にわたって当主が続いているのがわかる。実は最後の本多隆将氏(21代目)は現在の当主であることから、忠勝家は代々、江戸から現代まで受け継がれていたようだ。
https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12376504082.html, 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。
「山内一豊」(やまうちかずとよ)と言えば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の名著「功名が辻」(こうみょうがつじ)の主人公としても知られる戦国武将です。妻の「千代」(ちよ)による内助の功などにより大出世を果たし、やがて土佐国(現在の高知県)202,600石の大名へと出世を遂げました。伝記によれば、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていたのです。
と思ったかものしれない。(※実子は出家している), 以下は、本多忠真の忠義を称えるために建てられた「表忠彰義之碑」である。 と書いた札を立てて褒め称えた。, 続く「三方ヶ原の戦い」で徳川史上、最大となる敗戦を喫し、父と慕っていた叔父の本多忠真も討死。 最強武将と称えられる所以の要因であるが、それは全戦全勝を意味するものではない。, 遠江に大軍を率いて侵攻してきた武田信玄。 現地案内板からその内容をお伝えしよう。, 「この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。 http://www.town.otaki.chiba.jp/index.cfm/10,9705,65,html, https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12376504082.html. と答えたので、それを貰い受けて兜に付けたという伝説も。, 忠勝が好んだのは、動きやすさを重視した身軽な「当世具足」だった。 そんな願いで付けられた「忠勝(ただかつ)」という名は三河武士のシンボルでもあり、徳川家康の天下平定には欠かすことのできない忠義の武将でもあった。, 本多平八郎忠勝の父は、松平家臣・本多平八郎忠高である。 と言うと、本多忠勝は、 あと、龍城神社の授与品には、徳川家康の本や、岡崎城の本もあります。 鐙は「一本杉鐙」。, 13歳の初陣は、さすがの忠勝も大活躍とはいかない。 母は小夜(植村氏義の娘)で、忠勝は二人の長男(幼名は「鍋之助」)だった。, 生誕は天文17年(1548年)2月8日。場所は西蔵前城。
柄の長さは1丈3尺(約4m)で、一説には柄の長さが2丈の物と2本あったとか。 愛馬 黒馬「三国黒」 「三国黒毛」ともいい、徳川秀忠から贈られた。 しかし「関ヶ原の戦い」における島津義弘軍の銃撃により死亡し、本多忠勝は落馬した。 天下三名槍の一つ「蜻蛉切」を手にした本多忠勝。 すると、神主・柴田因幡が護符を貼り重ねて作っている。, 「何事か?」と事情を聞いてみれば、 忠勝は、その鹿を八幡神の使いと信じ、伊賀八幡宮の神主・柴田因幡に「鹿の角をあしらった脇立の兜制作」を依頼した。, 本多忠勝が、八幡神から鹿の角の兜を賜る夢を見たので、伊賀八幡宮へ行ってみた。 この名言は本多忠勝の辞世の句であり、彼が恩を返すことが出来なくなるから死ぬのが無念だと語った名言。 ちなみに「死にともな」は死にたくないと言う意味です。 現代に生きる私たちには武士は潔さを求めるようなイメージがあるかと思います。 戦国ファンの間では最強武将No.1として知られている。, 「ただ勝つのみ」 このときも怪我は、していない。, 「関ヶ原の戦い」の時に「三国黒」につけていた鞍。 なお、隆将氏は忠勝の鎧を所有しているとか。また、以前に徳川四天王の末裔が一堂に集まって行なわれた浜松市のイベントでは、先祖から「(忠勝は)ただ勝つのみ。強い武将だった」と聞かされていた、と話していたという。, さて、子孫が現代にも繋がっているのはわかったが、忠勝の血脈も受け継がれているのだろうか?, 系図でわかるように、後継者が養子の場合がかなり多い。だが、養子が継ぐ場合でも、分家から迎え入れるなどして忠勝の血筋がつながっており、18代忠昭などは、「初代忠勝→2代忠政→二男忠義→・・・・→13代忠顕→14代忠考→・・・・→17代忠敬」、といったように忠勝の血筋をつなげているのがわかる。ちなみに10代忠盈と12代忠典は、真田信之(=小松姫の夫)の血脈を受け継いでいる。, しかし、19・20・21代はいずれも養子であり、調べた限りでは3人とも忠勝の血脈を受け継いでいないようだ。, 戦国期に多大な功績を残した本多忠勝だが、その子孫たちは江戸時代にどのような処遇を受けたのだろうか?, 先に結論をいってしまうと、江戸期には実に10回も転封(=領地を別の場所に移すこと。国替え。)されており、8代忠良の代には減封(15万→5万石)までされている。同じ徳川四天王の井伊直政の子孫が、江戸時代に大老を務めているのと比較すると、良い処遇とはいえなかったように思う。, 最後に初代忠勝から17代忠敬までの簡単な年表でまとめたので、統治した藩の変遷や役職などを確認してほしい。, All Rights Reserved, Copyright © sengoku-his.com 2020 無断転載禁止, 徳川四天王として称えられ、現代にも天下無双の将として知られている本多忠勝。関ヶ原の戦いを最後に、戦場にでることはなかったが、忠勝の子孫たちは江戸幕府以降、どのような歴史をたどっていったのだろうか?. しかし、豊臣秀吉が亡くなったことで、運命の歯車が狂い始めるのです。「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に担がれた、名門・毛利家に育った毛利輝元の一生についてご紹介します。, 「毛利元就」(もうりもとなり)は、安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の国人領主から、中国地方全域を統一した戦国時代の豪傑。幼少期に両親を失い、19歳で兄を失い、さらに甥までをも亡くしたことで、次男にして毛利家の家督を相続します。権謀術に長け、稀代の策略家としても有名な武将です。一代で中国地方統一を成し遂げた、毛利元就の生涯を見ていきましょう。, 一時は畿内のほぼ全域を掌握し、「三好政権」と呼ばれる独裁政権を樹立した「三好長慶」(みよしながよし)は、下克上の代名詞とも言える戦国武将です。若くして頭角を現し、室町幕府の管領(かんりょう:将軍を補佐して政治を統括していた役職)を務めていた「細川晴元」(ほそかわはるもと)のもとで勢力を拡大。やがて主家をしのぐ力を付けて反旗を翻すと、近隣諸国を次々と支配していきます。しかし晩年は、家中の権力争いや敵対勢力の反発により優秀な弟達や嫡男を失い、徐々に衰退。三好長慶も失意の中、病没してしまうのです。そんな三好長慶の栄枯盛衰をたどりながら、その人物像を掘り下げていきます。, 侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ.
単騎で朝倉軍に正面から突入した「姉川の戦い」や武田軍から徳川家を守った「一言坂の戦い」などで武功を上げた本多忠勝の強さはまさに別格。生涯で57回もの戦闘に参加したにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったという逸話があります。
大多喜町役場 〒298-0292 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜93番地 電話:0470-82-2111 fax:0470-82-4461 法人番号:5000020124419 『上総大多喜城主本多忠勝・忠朝ものがたり』 しかし「関ヶ原の戦い」における島津義弘軍の銃撃により死亡し、本多忠勝は落馬した。 重装備なのに傷だらけだった徳川四天王・井伊直政とよく対比される。, 雲州道水作とも、伯耆広慶作とも。 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved. Copyright © 土地活用の東建コーポレーション ALL RIGHTS RESERVED. 「他人の力を借りてまで戦功を立てたくはない」 道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。, 忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
と断り、自ら敵陣に駆け込んで、敵兵の首をあげた。, 本多忠真は感涙し、 http://www.town.otaki.chiba.jp/index.cfm/10,9705,65,html, 掲載ありがとうございました m(_ _)m ちなみに10代忠盈と12代忠典は、真田信之(=小松姫の夫)の血脈を受け継いでいる。 しかし、19・20・21代はいずれも養子であり、調べた限りでは3人とも忠勝の血脈を受け継いでいないようだ。 忠勝 … 柄の長さは1丈3尺(約4m)で、一説には柄の長さが2丈の物と2本あったとか。, 「三国黒毛」ともいい、徳川秀忠から贈られた。 そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。, 「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。, 「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。, 「結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。, 「山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。, 「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。, 「毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。
さらには愛刀「稲剪りの大刀」、愛槍「蜻蛉切」を次々と手に入れ、16歳の時には「三河一向一揆」(注)鎮圧戦において、一向宗から浄土宗に改宗する。徳川家康側につき、多くの武功を挙げたのだ。, ※三河一向一揆:西三河(三河国西部地方)全域で永禄6年(1563年)9月から翌・永禄7年(1564年)2月までの約半年間行われた一向宗(浄土真宗)の門徒による一揆。, 生涯無傷の本多忠勝。 例)帰蝶、織田信長, 本サイトはリンク報告不要です。 「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」のひとりであり、徳川家臣最強の武将であったと語り継がれています。「日本三名槍」のひとつである「蜻蛉切」(とんぼきり)を愛刀としていた武将も本多忠勝です。
「夢で、鹿の角を作るようにと八幡神に告げられたので、作っている」 と徳川家康に言上する。, この「登屋ヶ根城攻め」後、本多忠勝は「鹿角脇立兜」の制作を依頼。 その翌年秋、本多忠勝は、松平元康に命じられ、矢作川を越えて刈谷方面へ偵察に行くこととなった。, 帰り道、渡河点が分からなくて困っていると、1匹の大きな牡鹿が現れ、川を渡り渡河点を教えて消える。 特徴的な鹿角の兜のみならず、肩から下げられた「金箔押の大数珠」は、いかにも堅強な武人というイメージである。, 三河武士のやかた家康館にある本多忠勝の顔出し看板(館内は撮影禁止ですが、この顔出し看板と体験コーナーは撮影可能です), 初陣となった永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」。 十代の頃は、肩から吊っていたと伝わる。, 藤原正真作で「天下三名槍」の一つ。 スポンサーリンク
「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、生涯をかけて「徳川家康」に奉公し徳川幕府250年の天下の基礎を築いた戦国武将です。
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 私の説は、「こツ可うす くんうきよや いまわ満(みつ)まる」(骨鯁す 君浮世や 今は満まる)です。 その偵察に出向いた忠勝は武田軍に見つかってしまい、図らずも「三方ヶ原の戦い」の前哨戦となってしまう。, 危険な殿(しんがり)を務めた忠勝は、上の絵にもあるように、見付(静岡県磐田市見付)に火を放ち、武田軍の追撃を遅らせた。 http://www.honda-tadakatsu.com/
法名は「西岸寺殿前中書長誉良信大居士」で、墓所は浄土寺(三重県桑名市)である。, 子孫は、姫路藩主(兵庫県)、浜田藩主(島根県)などを経て、明和6年(1769年)岡崎藩主となり、明治維新まで岡崎藩主として祖先の地・岡崎を治めた。, 本多忠勝の容姿については、一昨年(2016年)のNHK大河ドラマ『真田丸』の藤岡弘、さんや、昨年(2017年)のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の高嶋政宏さんのイメージが強いであろう。, 一言で表せば「無骨」。 「本多忠勝」は、「天下三名槍」のひとつである「蜻蛉切」を愛用していた徳川家臣最強の強さを誇る戦国武将です。生涯をかけて徳川家康に奉公し、数々の逸話・名言を残しました。そんな本多忠勝が居城としていた城や家紋、愛刀などと共に本多忠勝が生きた歴史を紐解きます。 ※続きは次ページへ. を出してます。 慶長8年(1603年)から眼病にかかり、慶長15年(1610年)、同病が原因で桑名城で病没。
「自分の役目は終わった。ここが死に場所」 退却の際、自ら殿を申し出ての悲劇であった。, 忠真は、我が子として育てた忠勝の活躍ぶりを見て、 刃渡り三尺(約1m)で、稲を背負った者を、稲もろとも大袈裟で切り倒した事から「稲剪の大刀」と呼ばれる。 愛知県岡崎市は西蔵前町峠の火打山にあった城で生まれている。, 2歳の時、父・本多忠高が戦死したため、叔父である欠城主かけじょうしゅ・本多忠真を頼り、洞城ほらじょう(岡崎市洞町)に母と住んだと伝わる。, 今川義元が織田信長に討たれた【桶狭間の戦い】の前哨戦となった作戦の一つで、松平元康(後の徳川家康)を支えて危険な任務を完遂。, 翌年に「登屋ヶ根城攻め」で初首を獲ると、トレードマークの一つでもある「鹿角脇立兜」を制作。 そして一言観音を祀る「一言坂(ひとことざか)」で追いつかれて、戦いとなる。, この時のすさまじい戦いぶりをして、徳川家康は「平八郎(本多忠勝)が八幡神に見えた」と絶賛。, 敵である武田軍の武将・小杉左近(武田信玄の近習)も、 桑名では「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業を断行し、「桑名藩創設の名君」として仰がれるほどだった。, 徳川家康のイトコにして戦国一の暴れん坊・水野勝成も、福山藩主になった後は名君としての誉が高いが、忠勝も含めて、単なる馬力だけでは真に強い武将とはなれなかった証左かもしれない。, しかし……。 「我、あに人の力を借りて功を立てむや」 三河の一向一揆では、同じくトレードマークにちなんで「蜻蛉切の平八郎」としてその名を馳せた。, 軍事訓練で馬に乗る姿を見た領民には「三河の飛将」と崇められ、姉川の戦いでは怒涛の単騎駆けで「日本の張飛」と畏れられた。, 詳細はエピソード編に譲るが「一言坂の戦い」をはじめ、その後の「長篠の戦い」や「高天神城の戦い(首級22)」など、最強に恥じぬ活躍で戦国の世を生き抜いていく。, 結果、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦い」(岐阜県不破郡関ケ原町)までに生涯57回も戦い、, 一方、同じ四天王の一人にして最も若い井伊直政と比べるとその所領は小さく、天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴った際は、上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石。, 慶長6年(1601年)には、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移封されている。 原文「のち、かならず、物の用に立つべきものなり。」(『寛政重修諸家譜』), このときは、育て親の叔父・本多忠真が、なんとかして本多忠勝に敵兵の首をとらせようとして奮迅。, 敵兵を倒し、 享年63。 本といえば、大多喜町の「NHK大河ドラマ誘致実行委員会」も 『本多忠勝・忠朝のおもしろい話』 「三国黒」の忘れ形見として、家臣・原田弥之助が持ち帰ったと伝わる。 「のち、かならず、物の用に立つべきものなり」 敵(織田方)の武将・山崎多十郎に討ちとられそうになり、叔父であり育ての親でもある本多忠真(ただざね)に救ってもらっている。, 意訳「将来、必ず、徳川家康公のお役に立てる大物になるでしょう」 ──家康に過ぎたる者が二つ有り 唐の頭に本多平八 「この敵兵の首をとれ」 こちらのページでは、戦国大名としても活躍していた本多忠勝の戦歴や人物像だけではなく、本多忠勝が残した名言や家紋、愛用していた槍「蜻蛉切」についてご紹介します。, 生涯で57回もの戦闘に参加しているにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったとされている「本多忠勝」。, 1548年(天文17年)、本多忠勝は三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で、松平家(徳川本家)の譜代家臣「本多忠高」(ほんだただたか)の長男として生まれました。, しかし、父・本多忠高は、1549年(天文18年)、幼い本多忠勝を遺して「安城合戦」で戦死してしまいます。, 1560年(永禄3年)、本多忠勝は12歳で「桶狭間の戦い」の前哨戦と言われる「大高城兵糧入れ」で初陣を果たしています。, しかし、この初陣では敵将に討ち取られそうになったところを辛くも叔父・本田忠真に救われるという結果に終わりました。その2年後、1562年(永禄5年)の「鳥屋根攻め」にて、本多忠勝は初の首級を挙げることに成功します。, 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで「今川義元」(いまがわよしもと)が討たれると、「徳川家康」は、これまで今川氏に占領されていた徳川本家の本拠地である「岡崎城」を、どさくさに紛れて奪い返すことに成功します。, しかし、今川方に付いていた徳川家の立場は危うくなり、1562年(永禄5年)、徳川家康は「織田信長」と「清洲城」で会見、同盟を結びました。, その後、本多忠勝は徳川家康と共に各地を転戦。「上ノ郷城攻め」や「牛久保城攻め」など、三河を巡った戦に参戦した本多忠勝は、武功を重ねていきます。, 1563年(永禄6年)に起きた「三河一向一揆」では、一向宗(浄土真宗)であった本多忠勝の親族である本多家の大半が一揆側に付きました。しかし、本多忠勝は浄土真宗から浄土宗に改宗し、徳川家康側に付きます。この三河一向一揆での活躍は、徳川家康に「その勇ましさはずば抜けている」と評価されました。, 今川家からの独立を果たした徳川家康は、三河国を統一し、1566年(永禄9年)には徳川家の軍事態勢を再編、「三備の軍制」として、「家康旗本衆」、「東三河衆」、「西三河衆」の3つに家臣団を分けます。, そのうち、本多忠勝は19歳の若さで、徳川家康直属の親衛隊である「家康旗本衆」に選ばれ、中央で54騎を統率する武将となりました。, 1570年(元亀元年)、「姉川の戦い」で織田・徳川連合軍は、「浅井長政」(あざいながまさ)、「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の連合軍と激突します。, 動員数では、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を上回っていましたが、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍の戦術に翻弄され、本陣付近まで侵攻を許してしまうことになりました。, 織田・徳川連合軍は、撤退寸前まで追い込まれます。敗戦の色が濃く絶望的な状況でしたが、本多忠勝は突破口を開くため、単騎で朝倉軍の正面から突入しました。これを見た徳川軍が、本多忠勝を討たせてはならないと奮起、徳川四天王のひとりとして知られる「榊原康政」(さかきばらやすまさ)らが側面から突撃を行ない、朝倉軍の陣形を崩すことに成功します。, この戦で多大な貢献を果たした本多忠勝を、織田信長はのちに「花も実もある武将だ」(外見ばかりでなく、中身も充実している)として褒めています。, 織田信長と同盟を結んだ徳川家康が当時懸念していたのは、甲斐の虎「武田信玄」の存在です。, 武田信玄は、織田打倒のため、将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)や「本願寺顕如」(ほんがんじけんにょ)、浅井長政、朝倉義景などの反織田勢力との連携を強めていました。, 武田信玄は、織田信長の包囲陣を作るために軍勢を三分し、1572年(元亀3年)、「西上作戦」を実行。それぞれ美濃国(現在の岐阜県南部)・三河国・遠江国(現在の静岡県西部)から、織田・徳川領を圧倒していきます。, 武田信玄の作戦によって、徳川家康の要所である「二俣城」への侵攻が開始。徳川家康は、本多忠勝、「内藤信成」(ないとうのぶなり)を天竜川へ偵察隊として先行させますが、武田軍の先発隊と遭遇してしまいます。, 二俣城へ出撃を開始していた徳川家康は退却を始めますが、一言坂(ひとことざか:現在の静岡県磐田市)で追い付かれたため、殿(しんがり)役を務めていた本多忠勝は武田軍と交戦、徳川家康率いる本隊の撤退に貢献しました。, この撤退戦での本多忠勝があまりに強かったため、敵側の「小杉左近」(こすぎさこん)は、「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」(徳川家康にはもったいないものが2つある。ひとつは唐原産の兜、もうひとつは本多忠勝)という狂歌を詠んでいます。, その後も、徳川家康は武田信玄に苦戦を強いられましたが、本多忠勝は徳川家康を守り通し、「浜松城」まで撤退することに成功。彼の功績を主人の徳川家康は、「さすが我が松平家の良将、八幡大菩薩の再来だ」と絶賛しました。, その後、本多忠勝は「長篠の戦い」の前哨戦である「長篠城攻め」で、榊原康政らと武田軍に勝利。続く1575年(天正3年)の長篠の戦い、1581年(天正9年)の「高天神城奪還戦」でも武功を挙げます。, このような本多忠勝の武勇を称え、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳が詠まれました。, 1582年(天正10年)6月、徳川家康は「安土城」へ招待された帰りに立ち寄った堺で、織田信長が「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反により討たれたことを知ります。, 明智光秀は、同盟を組んでいる徳川家康も討とうと、三河までの街道を張っていました。このとき、徳川家康は兵を連れておらず、絶体絶命の窮地に立たされ、織田信長のあとを追い自害しようとしたのです。, しかし、そのような徳川家康を本田忠勝は諫め、体制を立て直すために帰国を進言しました。徳川家康は、その進言を聞いてもなお落ち着かない状態でしたが、本多忠勝は主人を励まし続け、「服部半蔵」(はっとりはんぞう)の助けを借り、主従わずか30人程度で決死の「伊賀越え」を実行したのです。, 徳川家康一行は、伊賀(現在の三重県西部)を経由して鈴鹿の山々を越え無事伊勢までたどり着き、そこから船で三河に渡ったとされています。, 織田信長の死後、徳川家康は織田信長の息子である「織田信雄」(おだのぶかつ)に味方し、「豊臣秀吉」と対立。1584年(天正12年)に「小牧・長久手の戦い」で衝突します。, はじめ、本多忠勝は徳川家康の留守を預かっていましたが、大軍を前に徳川軍が苦戦していることを知ると、応援に駆け付けます。同じく留守を預かっていた家臣達は引き止めましたが、本多忠勝はこの警告を無視し、わずか500騎を引き連れ出陣しました。, 「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)には、本多忠勝は大軍を前に立ちはだかると、単騎で乗り入れ、馬の口を川ですすいで見せたという逸話が残っています。圧倒的な兵力差がある大軍に対して、怯まずに追撃を阻止しようとする本多忠勝の姿に、豊臣秀吉は豪胆さと忠義を感じ、攻撃をしてはいけないと自軍に命令を下しました。, 結果として、徳川家康は豊臣秀吉に敗れましたが、本多忠勝はこの戦の功績により、豊臣秀吉から「天下無双の東の大将」と称賛されたのです。, そうして、1586年(天正14年)、本多忠勝は主君・徳川家康と共に豊臣秀吉の配下に入り、従五位下中務大輔に叙位・任官しました。, その後、豊臣秀吉が天下統一を図ると、徳川家康は豊臣秀吉に三河国から関東への国替えを命じられます。, その際、関東に移封された徳川家康によって、本多忠勝は上総国大多喜(現在の千葉県夷隅[いすみ]地方)に10万石の領地を与えられ、「大多喜城」を本拠地としました。, 豊臣秀吉の死から2年後、53歳になった本多忠勝は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で東軍の最高司令官である「軍監」を務めます。作戦指揮を担当していましたが、本多忠勝は自ら手勢を率いて首級を挙げました。, この功績によって、関ヶ原の戦いの翌年1601年(慶長6年)には、上総国大多喜城から伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に移封されます。, このとき、徳川家康は本多忠勝の旧領である大多喜も同時に与えようとしていますが、本多忠勝はこれを辞退。そのため、大多喜5万石は本多忠勝の次男、「本多忠朝」(ほんだただとも)に与えられることとなりました。, 本多忠勝は桑名に入封すると、藩政を確立するために、揖斐川(いびがわ)沿いに「桑名城」の築城を始めます。桑名城には、4重6階17mの天守と51基の櫓(やぐら)、46基の多聞(たもん:石垣の上に築かれた長屋造りの建物で兵器庫と防壁をかねる)が建ち並び、船着き場も作られました。, あまりに築城工事が大掛かりだったために、徳川四天王のひとりである「井伊直政」(いいなおまさ)が家臣を動員して工事を支援したという逸話があります。, また、築城と同時に城下町と東海道宿場の整備を行ない、本多忠勝は桑名の発展を支えた「桑名藩創設の名君」と呼ばれるようになりました。, 本多忠勝は、江戸幕府が発足されると次第に病気がちになり、1604年(慶長9年)に眼病にかかります。, この頃、本多忠勝は共に戦場をかけてきた名槍「蜻蛉切」(とんぼきり)の2丈余(約6m)あった柄を、3尺(約90.9cm)切りつめさせました。長い柄を振り回して、いくつもの戦場で武功を挙げてきた本多忠勝でしたが、寄る年波には勝てず、「得物は自分の身の丈に合った物が1番良い」としています。, その後、1609年(慶長14年)、本多家の家督を息子の本多忠政に譲ったのち隠居。翌1610年(慶長15年)、本多忠勝は63歳で死去しました。, 本多忠勝は、生涯で57回もの戦に赴きましたが、戦闘中にかすり傷ひとつ負わなかったと言われています。死の直前に1度だけ怪我をしたとされていますが、その怪我は戦闘での負傷ではなく、所持品に小刀で名前を彫刻していたときに指を切ったというものでした。, 本多忠勝の兜と言えば、「鹿角脇立兜」(かづのわきだてかぶと)という、両脇から鹿の角が生えている兜が有名です。, 桶狭間の戦いで今川軍が敗走した際、今川氏の支配下にあった徳川軍は、退却する途中で増水した川が道を遮断し、退路を進めなくなるトラブルに見舞われます。, 徳川家康が困っていたとき、一頭の賢い鹿が現れ、川を横断できそうな浅瀬へと導いてくれました。徳川家康と共に従軍していた本多忠勝は、その鹿を戦勝の神である「八幡神」と考え、鹿角の兜を作らせて装備するようになったと言われています。, 本多忠勝の甲冑は、「黒糸縅胴丸具足」(くろいとおどしどうまるぐそく)という漆黒の当世具足で、軽量なのが特徴です。甲冑が軽量であれば、戦場で機敏な動きが可能になり、重さによる負担も少なくなるため、本多忠勝は機動性を重視していたことが分かります。, また、本多忠勝は甲冑を着用するだけではなく、甲冑の上から大きな数珠を肩に提げて、戦場を駆けました。この数珠には、自分が討った敵を弔う意味があり、本多忠勝はただ敵を討つことのみを考えていた訳ではなく、死者に敬意を表することができる人物だったことが分かります。, 鹿の角が生えた兜に真っ黒な甲冑を着用し、大きな数珠を肩から提げて、蜻蛉切を構えた出で立ちは、味方にとっては英雄、敵にとっては畏怖の対象でした。, 1562年(永禄5年)の「鳥屋根攻め」にて、初陣からおよそ2年の月日が流れても、一向に初首を挙げることができない本多忠勝に対し、叔父・本多忠真は、「この者の首を取れ」と無力化させた敵兵を指しました。, しかし、本多忠勝は「我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや」(人の力で得た首が、どうして私の武功となりましょうか)と答えると、そのまま敵陣に突っ込み、敵の首を挙げたと言われています。, そののち、「徳川家康いるところに平八(本多忠勝)あり」と言われるほど、徳川家康と本多忠勝は信頼が厚い主従関係を築いていきます。, 本多忠勝の遺書の一説で、「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ。」というものがあります。, これは、武士にとって最も大切なのは、手柄を立てたり首を挙げたりすることではなく、主君に忠節を尽くすことが1番大切なことなのだ、ということを言った物です。本多忠勝は、誰が見ても立派な剛の者でしたが、彼自身はそれを誇示することは決してなかったと言われています。, 関ヶ原の戦いののち、「福島正則」(ふくしままさのり)が本多忠勝の功績を褒め称えると、本多忠勝は「私が強かったのではなく、敵が弱かったのだ」と、淡々とした答えを述べたという逸話も残されました。, 本多忠勝は、文武共に優れた戦国武将。決して器用とは言えませんが、実直で、主君に決して背かない、強い忠誠心を持っていたのです。, これは、死を恐れているわけではなく、「死んでしまえば、主君・徳川家康の恩義にもう報いることができない」といった、徳川家康への深い忠節と愛情を表しています。, 天下無双、徳川方最強と称された本多忠勝でしたが、戦乱の世が太平の世に変わり、その役割は少しずつなくなっていきました。幕政に必要なのは武力ではなく文治の能力。, 本多忠勝は病のこともあり、幕府の中枢からは離れたところで天寿を全うしましたが、徳川家へ深い忠義がなくなることはありませんでした。, 江戸幕府成立後、葵を使った家紋は、徳川家のような位の高い者だけが使用できる家紋だとして、徳川家康によって使用を禁止されます。, しかし、本多忠勝は、本多家が先祖から受け継いできた立ち葵を家紋とすることを許されていました。, 一説では、徳川家の葵の御紋を考案するのに手本としたのが本多家の立ち葵だったとも言われています。, 本多家は、徳川本家(松平家)に代々仕えてきた家系。本多忠勝は、徳川家康を命に代えて守り抜きましたが、徳川家康もまた、本多忠勝に絶大な信頼を寄せていたことが窺えます。, 本多忠勝が使っていた蜻蛉切は、「日本号」、「御手杵」(おてぎね)と並び「天下三名槍」のひとつ。作者は、三河に移った村正一派である「三河文殊派」の刀工、「藤原正真」(ふじわらまさざね)によるものだと言われています。, 笹穂の槍身で、刃の長さは1尺4寸(約43.7cm)、茎は1尺8寸(約55.6cm)。表は鎬造り、裏は平造りで、幅は広く、樋のなかには梵字と三鈷剣を、元には梵字と蓮の花を浮き彫りにしています。, 蜻蛉切の特徴はその長さにあると言われていますが、それは本体ではなく柄のことを指しており、通常槍の長さが5mに満たないところ、蜻蛉切はおよそ6mもある大笹穂槍でした。, 本多忠勝の晩年には短く削られてしまい、現存していませんが、柄には青貝の螺鈿細工が施されていたとのことです。, 名前の由来は、戦場で飛んでいたとんぼが槍先に止まった際、触れただけで真っ2つになってしまったことに因んでいます。, 本多忠勝はこの鋭い切れ味を誇る蜻蛉切で、姉川の戦いや一言坂の戦いなどの戦を無傷で駆け抜けてきたのです。, 「天下三名槍」の写し「三槍」を制作するプロジェクトにて、現代刀匠の最高位「無鑑査刀匠」のひとり「上林恒平」刀匠の手によって制作された「蜻蛉切」をご覧いただけます。, 刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の制作は、東建コーポレーション株式会社と一般財団法人 刀剣ワールド財団、株式会社東通エィジェンシーの共同制作です。.
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